ホワイトボードに書かれた候補が、もう28個になっていた。
「リンさん、これ絶対決まらないやつですよ」とコウタがぼそっとつぶやいたのは午後2時すぎ。窓の外はもうオレンジ色で、缶コーヒーは私だけで3本目。換気扇がぼうっと回る音と、誰かがボードペンのキャップを開け閉めする音だけが会議室に漂っていた。
正直に言う。司会の私も、途中で諦めかけてた。
これが「時短ラボ」というサイト名が生まれた日の話。3時間かけてたどり着いた、あの5秒の話。
候補28個、ぜんぶ「なんか違う」で終わった午後
そもそもの発端はこうだ。私たちがやろうとしているのは「忙しい人の、ちょっとした時間を救うメディア」。料理でも仕事術でも育児でも、小さな効率化のヒントを届けたい。じゃあサイト名は?という話になったとき、みんな自信満々に候補を持ってきた。A4の紙にびっしり書いてきた人もいたし(ハル)、スマホのメモを横から覗かせてくる人もいた(コウタ)。
コウタが最初に出してきたのが「ゆるラク生活部」。「俺、このワード絶対バズると思うんですよ! ”ゆる”と”ラク”を掛け合わせて、なんかもう聞いただけで体の力が抜ける感じ、しません?」と語り始めたところで、ハルがすっと手を挙げた。
「…と言われていますが、実は”ゆる”も”ラク”も、すでに類似サービスのドメインが複数取得されています。”ゆるラク”という表記に限っても、商標登録の出願が確認できます」
コウタ、0.5秒で沈黙。その後「ハルさんいつ調べたんですか……」とだけ言った。
ミズキが次に出したのは「テックカット」。「技術で時間を切り取る、みたいな意味で! スパっとした感じがいいかなと思って」と説明してくれたんだけど、タケルが「それ、理髪店みたいじゃない?」って言い出してから、誰も真剣に検討できなくなった。「テックカット……散髪……カット……」ってみんなで5分くらいぼんやりしてたのは今となっては笑い話だけど、あの沈黙はなかなかきつかった。
タケルが出してきたのは「段取りごはん」。「家事と料理の段取りに特化して——」と言い始めたところで私が「それ、料理サイトになっちゃわない?」と遮った。タケルは「あ、そうか」と言ってすぐ引き下がったんだけど、なんか申し訳なかった。だって名前だけ聞いたら普通においしそうだったし。
ハルが出してきたのは「時間管理実践誌」。正確だし、内容も伝わる。でも私が「それ、何秒でできる?じゃなくて、何年かけて読む雑誌?って感じがするんだけど」と言ったら、ハル本人が「…たしかに」って静かにうなずいた。ハルが自分の提案を即日撤回するのを初めて見た瞬間だった。なんか記念すべき瞬間な気がして、心の中でスクショした。
タケルが突然「冷凍庫の話」をしはじめた
行き詰まったのは会議が始まってから2時間が経ったころ。コーヒーの匂いがこもった部屋で、ホワイトボードには死屍累々の候補たちが並んでいた。「ズボラ革命」「効率化ラジオ」「ちょっと早い暮らし」「TIME HACK JP」。全部なんか違う。
そのとき、タケルが急に言い出した。
「うちでもやってみたんだけど、子どもが生まれてから料理の段取りが全然変わって。週末に2時間かけて仕込みをしておくと、平日の夜がまじで変わるんですよ。昨日も鶏の照り焼きを4人前冷凍しといたおかげで、帰宅してから10分でごはんが出せたんです」
私は「タケル、いまサイト名の話してるんだけど」と返したんだけど、タケルは続ける。「それがポイントで。そのとき気づいたんですよね。時間って、貯めておけるんだなって」
静かになった。
ミズキが「……それ、めちゃくちゃいいこと言った」とつぶやいて、コウタが「え、え? どういうこと? もうちょっと説明して?」と前のめりになった。タケルは少し照れながら「いや、冷凍庫みたいに、時間もうまく使えば”貯金”できるんじゃないかなって。余裕のある日に仕込んで、忙しい日に使う、みたいな」と言った。
その話、会議の本筋じゃなかった。でも何かが変わった気がした。私たちが作りたいのは「ラクになる方法を並べたサイト」じゃなくて、「時間の使い方を実験する場所」なんだな、って。なんとなくみんなが同じ方向を向いた瞬間だった。
ハルの「一言」が空気をひっくり返した
「”ラボ”は、どうですか」
ハルが静かにそう言ったのは、会議が始まってから2時間半が経ったころ。外からうっすら夕方のバイク音が聞こえてくる時間帯だった。
「実験、研究、検証。時間の使い方を試す場所、という意味なら”ラボ”という言葉が近いと思います。……と言われていますが、実はこの言葉、近年のWEBメディアのサイト名としてはまだ使用例が少ない。意外と空白地帯です」
コウタが「あ、ハルさんが珍しく推してる!」と声を上げた。ハルは「推してるというより、語義的に正確だと言っているんですが」と訂正したけど、その目が少し輝いていたのは私だけが気づいていた。
「時間 × ラボ、か……」と私はボードに書いてみた。「時間ラボ」「じかんラボ」「タイムラボ」。声に出すと、どれもなんかしっくりこない。時間を「短くする」のがテーマなんだから、もっと直接的でいいんじゃないか。「時短」って言葉がある。あれ、そのまま使えばよくない?
「時短ラボ、は?」
誰かが言った。あとで確認したら、タケルだったらしい。本人は「えっ、俺が言った?」って驚いてたけど。
「時短ラボ」が決まった、あの5秒
時短ラボ。声に出してみると、5文字でぜんぶ入ってる。「時短」で何を扱うか伝わって、「ラボ」で実験・探求するスタンスが出てる。ゆるくもなく、かたくもない。頭に残る。
「あ、これだ」と私が言うよりも先に、ミズキが「これSEOも強そう」と言って、コウタが「俺ドメイン調べてみます!」と立ち上がり、ハルが「語義的には申し分ありません」と静かに言った。タケルはお茶を一口飲みながら「よかった」とだけつぶやいた。
5秒くらいのできごとだったと思う。3時間かけてたどり着いた、5秒。
「時短ラボ、ドメイン空いてます!」とコウタが叫んだのと同時に、外でカラスが鳴いた。もう夕方5時だった。ホワイトボードに書かれた28個の候補たちが、なんか労いを受けてるみたいでちょっとよかった。
打ち上げでタケルが泣きかけた件について
サイト名が決まったその夜、5人で近くの居酒屋に行った。カウンター席で肩を並べて、生ビールで乾杯した。揚げたての唐揚げがテーブルに来て、コウタが「最初から時短ラボって言えばよかった!」と叫んで、ハルが「最初にそれを言えるなら、会議は要らないんです」と返して、みんな笑った。
タケルは2杯目の途中で「子ども、もう5ヶ月になったんですよ」と言って、スマホで写真を見せてくれた。丸くてふかふかの顔。ミズキが「うわかわいい、それ時短の申し子じゃん」と言って、タケルが「それ褒めてるの?」って笑いながら目を少し赤くしてた。
私はそのとき思ったんだけど、「時短」って、効率だけの話じゃないんだよな。タケルが週末に仕込みをするのは、平日に子どもと少しでも長くいたいからで。ミズキがデスクの配線を整理するのは、余計な作業をなくして「好きなことに使う時間」を増やしたいからで。ハルが一字一句正確に校閲するのだって、読む人が余計な混乱に時間を使わなくていいようにするためで。
時間を短くしたいんじゃなくて、大事なことに使いたい。それがたぶん、私たちが「時短ラボ」でやりたいことなんだと思う。
……と、きれいにまとめようとしたところで、コウタが「そういえばリンさん、乾杯のとき缶ビール2本同時に開けてましたよね」と言い出した。「え、1本でしょ」「2本ですよ絶対、俺見てましたもん」「ちがう!」という議論が始まって、そっちで30分かかった。
うちの編集部は、たぶんずっとこんな感じだと思う。

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